満たされた水の表面を撫でるように流れる風が、小さな波を幾つも形作っている。
湖を微かに揺らすだけの、風波とも呼べないような起伏は、等間隔に並びながら、規則正しく湖面を走っていく。
そんな変化のない、ただ同じことが繰り返されるだけの光景を、戸川汐音はずっとひとりで眺めていた。
目の前に広がるのは、真っ暗な霧弥湖。水面の揺らぎだけが、白い線のようにはっきりと感じとることができた。
音はなかった。匂いもない。周りは暗くかすみ、ただ湖を見ている自分がいるだけの世界。
どういった経緯でここにいるのかも、今自分が座っているのか立っているのかすら、判然としない。
そんな、すべてがぼやけた時間。
汐音が分かっていることは、ただひとつ。
自分は今、眠っているのだということ。それだけ。
眠り、そして夢を見ている。
「──また、この場所」
自分の存在を確認するように、言葉として発した声は、幼い子供のものだった。小さかった頃の、戸川汐音の声。
懐かしい声をきっかけに、夢の中の汐音は、記憶の糸をたぐり寄せる。汐音の意思ではなく、望んだことでもなく、ただ自動的に。
──七年前、汐音には大切な友達がいた。出会ったのは、この場所。湖が見渡せるベンチ。友達の名前は、古宮乃々香。声をかけたのは、引っ込み思案な自分ではなく、乃々香の方だった。
乃々香は、狭く閉じこもっていた自分を、もっと広い場所へと導いてくれた。
天文台と呼ばれる、自分ひとりではきっとたどり着けなかった、空の光が鮮やかに差す場所。
天文台では、楽しい思い出しかなかった。乃々香は自分の手を引っ張り、笑顔を教えてくれて──そしていなくなった。
ひとりになった汐音は、友達との再会を信じて、湖畔のベンチに座り、ただずっと湖を見つめていた。
湖の空に円盤が現れ、それまで住んでいた霧弥湖町を離れ、北美市で暮らすことになっても、汐音はバスに揺られて毎日のように湖を訪れていた。
乃々香のことを、天文台で教えてくれた笑顔を、信じていたから。
だから──父親から、雪も降らないくらい遠くの街へ引っ越すことを切り出されたとき、汐音は中学校を卒業するまでは、という約束で北美市のマンションにひとり残ることを願った。
汐音の願いは、心配する父親に渋々という形で受け入れられた。
そして、あの夏の日。
同じ湖畔で、汐音は乃々香と出会い、それから時間をかけて、ノエルや天文台のメンバーのちからも借りて、本当の意味での再会を果たす。
それなのに──。
辿ってきた記憶の糸が、現実に追いつく。
「もう、こんな風に湖を見ることはないって、思ってたのに」
夢の中の汐音が呟く。すでに、幼い子供の声ではなかった。
現在の汐音。だけど、その表情は乃々香と出会う前の、笑顔が上手ではなかった頃に戻っている。
汐音の眼前に広がる暗い湖面が、心音のように規則正しく、小さな波を刻み続けている。
見つめる汐音の中に、次第にわき上がるのは、自分ではどうしようもない不安の感情だった。
汐音の身体の奥から得体の知れない焦燥が鼓動となって溢れ、それが投影されたように、湖面がさざめく。
後悔は、していないはずだった。
ずっとひとりで考えた末の答えだった。
これが最良の選択だと信じているから、汐音は天文台のメンバー──柚季、こはる、湊太の三人に、ノエルのことを伝えた。
話したあと、自分の決意が揺れないように、その言葉を、その場にいたみんなに聞こえるように声に出した。
「──だから、もう私に関わらないで」
同じ言葉を、夢の中の汐音がもう一度呟く。
これが正解だということを、確認したかった。それでも押さえられない不安の波を、消してしまいたかった。
祈るように声を絞り出す。
「……もう、関わらないで……お願いだから……!」
それなのに、湖面の波は消えるどころかその数を増していく。
汐音の動揺を映し出すように不規則に揺れ、波と波がぶつかって大きな揺れへと変化する。
「どうして……」
ぎゅっと目を閉じても、不安の波は汐音の心を直接揺らす。
心臓の鼓動が、早くなっていく。
胸が押しつぶされそうなくらい息苦しい。
自分は間違っていない。
それが、ノエルやみんなのため。
だって──苦しむのは、自分ひとりだけで済むのだから。
夢の中の汐音が、もう一度目を開く。
そして、乃々香に教えて貰った笑顔を懸命に思い出そうとする。ひとりぼっちでも笑うことができれば、きっと今を乗り越えられる。
だけど、あんなにはっきりと覚えていたはずの乃々香の笑顔が、波立つ湖面のように濁って、思い出を辿ることができなくなっていた。
水の中にすっぽりと入ってしまったように、重たい闇に囲まれて、それでも自分に言い聞かせながら何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
「── 自分が、ひとりになればいいだけだから。それだけで、誰も悲しまないで済む──」
これでいいの。
そうでしょ──ノエル。
闇の中、ノエルの真っ直ぐな瞳がどこか悲しそうに自分を見つめていることに気づいたのと同時に、汐音は夢から覚めた。